先日、鎌倉市内の「鎌倉歴史文化交流館」へ、特別展となる「北条政子展」を見にいってきました。(※会期は2月28日まで)。

「北条政子」(ほうじょうまさこ)。
この名前を聞いて、皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか。
「初期の鎌倉幕府を裏で取り仕切っていた」とか、今風に言えば、
「怖い女性」
「権力を持った、冷徹な女性」
というイメージをお持ちの方も、いらっしゃるのではないのでしょうか?
実は、私自身、幼い頃から歴史の本をたくさん読んできましたが、北条政子に対しては
「近くにいれば終始ピリピリしていそうだ」
と言うイメージを持っていました。
また、一部の伝承においては、政子の実子である、鎌倉幕府2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)、源実朝(みなもとのさねとも)の暗殺による非業の死に関しても政子が絡んでいる、という伝えられ方がされており、私は「あの時代の背景においては、あり得たのではないか、しかし、母親が子供たちの祖父(北条時政)と組んで実の息子にヒットマンを飛ばして葬り去るとか、しかも三男である実朝に関しては身内(公暁=「こうぎょう」とも、「くぎょう」とも伝わる)を暗殺犯に仕立て上げるとか、怖すぎるな・・」と言う印象がかつてはあったことは事実です。
※政子ファンの皆様ごめんなさい・・
しかし、この日、そのイメージは変わりました。
歴史好きなつもりで生きている私ですが、まだまだ歴史の深いところは、勉強する必要があるな。そこを痛感しました。

政子の「悪女像」と言うイメージは、後世、特に朱子学的な風潮で世の中の価値観が「男性優位」になってからそのように伝わってきたものであり、私自身のことで言うと、幼い頃に読んだ本の影響で無邪気にインプットされた「怖い女政治家・北条政子」のイメージをかなり最近まで引きずっていたのだな、と痛感するほかありませんでした。
(ただ、800年も昔の人なので、実際にどんな人だったのかは、実際は分かりませんが・・)


この日は、第1章のコーナーで、実際の北条政子のことを知りました。
政子は、敵方の将であった木曽義仲を頼朝が滅ぼしたのち、その娘に対し、赦免したばかりか美濃国(みののくに・現在の岐阜県)に領地を与えたと伝わるそうです。
また、頼朝と弟の義経の関係がこじれて、義経が都から鎌倉から逃れると、鎌倉に護送されてきた対面した義経の愛妾(あいしょう)・静御前(しずかごぜん)が、「義経を思う舞」を頼朝夫妻の眼前で踊ったと言う場面がりました。
頼朝は当然激怒し、静御前はまさに命の危機でしたが、政子がなだめたと言う話があります。(この伝説はかなり有名な話で、私も知っていました)。この話が、この「北条政子展」でも紹介されていました。
政子は為政者としても「女性ならではの視点」を持っていて、戦死した者の妻や他にも、不遇な環境にいる者へ手厚い援助を施したそうです。
また、仏の道や、神社仏閣への信仰心も厚かったようで、鎌倉市二階堂の永福寺(ようふくじ※現在は史跡として残る)は源頼朝が奥州平泉を攻略したのち、平泉における合戦での犠牲者を弔うために建立した寺院ですが、政子も永福寺の建立に帰依していたと伝わっており、実際に政子が永福寺に奉納した可能性がある櫛なども展示されていました。

さらに、子どもたちのうち、長女の大姫(おおひめ)は婚約者である木曽義高が親同士の争いのために非業の死を遂げ、そこからの心労により20歳で他界、頼家と実朝は暗殺による死を遂げました。政子は子どもたちの運命を大いに悲しみ、和歌を認めていたそうです。
そのような展示を見るうちに、私の北条政子への「誤解」は、溶けていきました。
一方で、政治への大きな熱意を持っていた政子は、「女人入眼(じょじんにゅげん)」と言う言葉で評されるようになります。

これは、「日本の政治の形に女性の意見が入るようになった」と言う意味です。
政子はそれほどの影響力を有しており、一部の資料では「当時は、政子こそが鎌倉幕府第4代将軍であると認識されていた」と言う記述も確かにあるそうです。
(源氏の直系が途絶えたのち、鎌倉幕府では北条氏のトップが宰相に当たる「執権」として政治を行いましたが、京の九条家と言う、簡単に言えば名門から将軍を迎え入れていました)
政子の人生終盤のハイライトは、1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府を「朝敵」と断じ、鎌倉に侵攻した「承久の乱」に鎌倉幕府が直面した時だと、多くの歴史好きな人が認識しているのではないでしょうか。
「朝敵」となったことで、鎌倉幕府は大ピンチを迎えたものの、政子の御家人たちを鼓舞する「頼朝公のご恩は山よりも高く、海よりも深い。今こそ、そのご恩に報いる時だ」という意味の、歴史ファンの間ではかなり有名な演説で御家人たちが一致団結し、見事朝廷の軍を打ち破り、ここにその後650年に渡る武士の世は盤石になった・・というのは、歴史好きな人であれば、ほぼ異論はないのではないでしょうか。
(吾妻鏡などの伝承である部分はあるとは思いますが)
今回の北条政子展では、この部分を書いた吾妻鏡の写本、そして現代語訳も出ていました。


この北条政子展では、他にも、優れた歌人としても後世に名が残る源実朝が残した
「金槐和歌集」(きんかいわかしゅう)の写本や、政子の甥である3代執権、北条泰時が制定した武士の法律、「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)の複製本などが出ていました。


どれも、歴史好きな私にはまさに目の前で見ているのが夢のような資料ばかりで、しっかりと目に焼き付けました。
最後に、「北条政子展」の会場では、真ん中に、教科書などでよく知られている北条政子の姿を現した木像が公開されていました。
※今回の北条政子展は、撮影可能な資料・展示品と、撮影NGなものがあり、この木像はNGでしたが、歴史好きな人は見れば感動すると思います。
その様に、多くのことを感じて、今回の北条政子展を観覧してきました。
「怖い女政治家で冷徹」
というイメージも付きまとう北条政子ですが、実に運命に翻弄された、1人の、人としての情けも持った、しっかり人物だったのかな。と今は思っています。
私も歴史が好きで、縁あって鎌倉に住んだのだから、さらに歴史を深めていきたいと考えています。
大げさに聞こえるかもしれませんが、本当にこう思います。
鎌倉の歴史の魅力は、底なしであり、神秘に溢れている!!
本当に、無限なくらい、ワクワクする街です。




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