【前編】人生の思い出を生涯の仕事にする
鎌倉 人力車 有風亭・青木 登さん
「計画を持って始めたわけじゃないんです。
見た瞬間、直感で“これだ”と思ったんですよ。」
今回ご紹介するのは、鎌倉で人力車という仕事を42年間続けてきた、有風亭・青木登さん。
鎌倉の町を知る人なら、一度はその姿を目にしたことがあるかもしれません。
人力車を“観光の道具”ではなく、人生の節目に寄り添う仕事として育ててきた人物です。
鎌倉初の観光人力車、その始まり
青木さんが鎌倉で人力車を始めたのは昭和59年。
当時、名古屋より東の日本には、観光人力車という存在自体がほとんどありませんでした。
「最初は観光中心でやっていたんですが、
気づいたら結婚式や成人式、七五三といった“人生の思い出”に関わる仕事が増えていったんです。」
結果的に、42年間で約1万1000組の新郎新婦を人力車に乗せた青木さん。
距離にすれば、地球を2周分に相当すると言います。
すべては一度の“悔し涙”から始まった
実は青木さん、人力車の世界に入る前は、
流通業界でバリバリ働くサラリーマンでした。
売上成績トップのご褒美として与えられるはずだったヨーロッパ旅行。
それが、会社の判断で突然ハワイ旅行へ変更されてしまう――。
「東京駅から浜松までの新幹線で、悔しくて泣きました。
あの瞬間に“もう辞めよう”って決めたんです。」
計画的な独立ではありません。
悔しさと感情に突き動かされ、たまたま手に取った週刊誌で見た
飛騨高山の人力車の写真が、人生を変えるきっかけになりました。
誰もやっていなかったからこそ、冷たい視線もあった
鎌倉で“元祖”として始めた人力車。
しかし、待っていたのは賞賛ではなく、厳しい現実でした。
「長く続くはずがないって、よく言われました。
ひどい時は、親が子どもに
“勉強しないと、ああいう仕事しかできなくなるよ”
なんて言う場面もありました。」
それでも青木さんは、
鎌倉という町の品格を崩さないことを何より大切にしてきました。
「客引きはしない」——鎌倉の風景を守るために
人力車業界では当たり前になっている客引き。
しかし青木さんは42年間、一度もそれをしなかったと言います。
「乗りたい人に、乗ってもらえばいい。
それが鎌倉の町に合っていると思ったんです。」
売上は決して高くなかった。
経済的に苦しい時期も長かった。
それでも——
「あなたの人力車は、鎌倉の風景の一部だね。」
そう言われた瞬間が、何よりの報酬でした。
名前を背負うということ
「有風亭」という屋号は、鎌倉在住の女流作家の方々とのご縁から名付けられたもの。
その名前を背負った瞬間から、
青木さんの仕事への向き合い方はさらに変わっていきます。
「背中に名前を背負ったら、
いい加減なことはできない。
鎌倉の役に立つ存在でありたいと思うようになりました。」
人生をやり切った、と言える仕事
77歳で現役引退を決断した青木さん。
若い頃の怪我が、年を重ねて体に響いてきたことが理由でした。
それでも今は、
結婚式や成人式など、短時間・軽い負荷の仕事だけを受けながら、
“8割引退・2割現役”という形で人力車と関わり続けています。
「100%やり尽くしました。
人力車人生は最高でした。」
そう言い切れる仕事人生は、そう多くありません。
後編では——
人力車を通して見えてきた鎌倉の変化、
そして「これから人力車に関わる人たち」への想いを伺っていきます。
👉 後編もぜひ、お楽しみに。





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