鎌倉アカデミア80周年 Anniversary Special – 後編

風かおる5月の週末、皆様いかがお過ごしでしょうか。 「みんなのアカデミア」ご案内役の中溪です。

終戦間もない1946年5月、材木座の光明寺を仮校舎に産声を上げた「鎌倉アカデミア」。 多彩な個性と才能を輩出しながらも、激動する時代の荒波にほんろうされ、わずか4年半でその歴史に幕を下ろした幻の大学です。

前編では、演劇科第1期生の加藤茂雄さんの生前のお話から、軍国青年だった加藤さんが終戦を迎え、鎌倉アカデミアという「自由の熱気」へと吸い寄せられていく道のりをお届けしました。

後編も引き続き加藤さんの貴重なインタビューをもとに、光明寺での一風変わった授業風景や、加藤さんが役者への道を決定づけた瞬間、そして今に受け継がれる学びの神髄へと迫っていきます。

絵本『茂さん』が繋ぐ、長谷の記憶と平田恵美さんの思い

その前に、ここで一つご紹介したいものがあります。先月のゲスト・伊東雅江さんのお話にも登場した、絵本『茂さん―鎌倉長谷のむかしむかし』です。

加藤さんが子ども時代を過ごした戦前の長谷の様子が生き生きと描かれ、その日常を今に伝える一冊です。この本のあとがきとして、それからの加藤さんの歩みを、鎌倉市中央図書館近代史料室の平田恵美さんが寄せていらっしゃいます。その一部をご紹介します。

青春時代の入り口を、戦争の真っ只中で過ごした加藤さんの前に、鎌倉の海は眩しく光り、漁師の網には魚が跳ね回っていました。戦争が終わったのです。

まっすぐ湾の東を見ると、材木座・光明寺の大きな甍(いらか)が加藤さんの目の中に飛び込んできました。昭和21年5月、その大きな寺の伽藍で産声を上げた若ものの学び舎、「鎌倉大学校(鎌倉アカデミア)」に、加藤さんは吸い寄せられました。

波打ち際の“しょんがた”を歩いて、毎日この大学の演劇科に通いました。新しい世界、新しい友は、彼を俳優の道へと誘いました。黒澤明監督の映画『七人の侍』には百姓役で出ました。厳しく鍛えられ、どんな小さな役でも飽きずに演じながら、92歳になった今も現役です。

原点には、子ども時代の長谷の町の人々と青い海。そして、鎌倉アカデミアで出会った先生と友人がいます。

熱い思いを持って鎌倉アカデミアのことを広く、深く、長く伝えていらっしゃる平田恵美さんによる、美しいあとがきの一節です。

加藤茂雄さんインタビュー:熱気の教室と、役者人生の始まり

それでは、加藤茂雄さんのお話の続きをお届けします。音声データ「2026年5月鎌倉アカデミアspecialー後編.mp3」より、光明寺での一風変わった授業風景や、加藤さんが初舞台を踏み、役者への道を決定づけた瞬間についてのお話です。

演劇科だけの「特別待遇」?

(加藤さん) 「お寺の本堂っていう大きな広場をね、あれを弁柄(べんがら)板か何かで以て、2つに、文学科、産業科、演劇科とこう区切ってね。演劇科だけはちょっとね、他の科はあの、畳へ座ってね、寺子屋みたいに授業聞いたんだけどね、演劇科はね、やっぱり俳優を志してたり舞踊家を志してると、畳へ座るんじゃいけないっていうんで、腰掛けで、ちゃんとテーブル作ってね、特別待遇の部屋をこしらえてくれたの。だから僕たちは、ついでにこしらえた(笑)、腰掛けに腰掛けて、杉板の机があって、それで授業受けたんだけどね。それは演劇科の先生がそういう注文をしたんだろうね。お寺の中にその部屋を作ってね、だから演劇科だけはちょっと、優遇されたんです、畳じゃなかった。

で、冬になるとね、もう戦争中の後だから、薪だってなかなか無いしね、大きな植木鉢みたいな、箱を作ってそこへ炭を熾してね、部屋でね、温度をとったんだけど、みんなオーバー着たまま、先生もオーバー着たまま、生徒もオーバー着たまま(笑)。暖房設備なんか無いからね。そういうことでみんなだから生徒が、その大きな、火鉢ができて、そこへ集まってね、手をあてて暖まりながら授業聞いたりね、冬の場面っていうのは、畳にそういう大きな火鉢が置いてあって、そんなことやったんですよ」

帝国劇場での『真夏の夜の夢』、一生物の感動

(中溪) 「当時、文学科、産業科、そして演劇科があって、その後に映画科ができたんですよね。加藤さんはなぜ演劇科に入られたのですか」

(加藤さん) 「山村さんから演劇科の先生に、築地小劇場で演出してたような、この芝居やめろだの、小林多喜二の『蟹工船』やってたら、バツバツだっていうんでね(笑)、セリフがね。で、軍から抑えられたとかね、そういう演出家をやってたり、芝居をやってた人たちに教わるべきだと、山村さんはそれを子どもの頃からずっと見てたから、僕に言ったわけですよ。いかに戦争に反対した人が学校にきて先生をやってるんだって。

それで、僕は春の目覚めっていうので初舞台を踏むことになるんですけど。これもね、友達がね、今『一組(ひとみ)』っていう人間劇団、それを起こした渡辺っていうのが同じ演劇科の生徒にいて、彼が光明寺の脇に建築の、お寺の屋根だとかを修復するような、資材をいっぱい置いてあるような部屋、そこへ彼が住み込みみたいに、お寺に話して、そこを住まいにしていたんだけど、そこへ僕ら学校に行くと、授業始まる前に必ず彼の部屋へ訪問して、駄べっていろんな世間話をね。黒澤明の『野良犬』っていう映画が良いとかね(笑)、平塚らいてうが来てるから見に行ったとかね、そういうね、雑談を年中してた。

そしたら渡辺が『春の目覚め』っていうのを演出も行ったんで、『加藤、ぜひ役者やんないか』って言うんでね。『村山さんに、お前を推薦するから』って。なぜ加藤に役者やらせるかっていうと、みんな地方から出てきた人が大勢いて、発音に訛りがあって、僕は鎌倉だから江戸弁に近いし、物事の口調がはっきりしてると。だから加藤、役者やれって(笑)。で、村山さんに推薦して、で、セリフのある校長先生の役を、加藤、俺が決めてきたぞって言うんで。じゃあやってみるかっていうわけで(笑)。それまで役者なんかやる気は全然なかったんだけど、彼の一言でね、やるかって言って参加したわけ。

そしたら、日劇小劇場でお客さんがね、2,000人も入っちゃったわけ、有楽町のね、ど真ん中の。そこで学生劇がね、初めて登場するなんていうのはね、あり得ないこと(笑)。それは村山さんなんかがそういう有名な演出家だったから、そういう人たちがやったんだろう、東宝の重役さんの息子だかが僕らより後に入ってきた生徒にいたわけ、そういうのはね、話ができてね、借りられたんだよね。

で、そこで2,000人のお客さんがきて、みんな『春の目覚め』だからね、なんか凄く(笑)エッチな感じだったんじゃない(笑)? それで、一般の、復員軍人だとかね、そういうのがフラフラ東京へね、食べ物無いから遊びにきてたのが、みんなその看板見たらね、並んじゃったわけ。東京のど真ん中だから2,000人も入っちゃった。お客がギッチリだからね。それは普通、他の大学の学生劇だってそんなことあり端ない、それがだから先生たちがそういう有名な、戦争中有名だったっていうね、そういう抑えられた人たちが先生になって演出家になって出てるから、それで客が入っちゃったんだろうけどね。

その前にも授業でね、帝国劇場っていうのは今あるでしょ、あそこは初めてね、アメリカが解放してくれたんだけど、あそこでシェイクスピアの『真夏の夜の夢』っていうのをね、日本の演劇人を全部、映画、演劇、それから舞踊から何から何まで全部総合して、総合芸術っていうかね、戦後初めての一大演劇をやってくれたわけ。それを学校のね、授業としてね、村山さんだとか千田さんだとか授業にこれないんで、忙しくなってきたんで、生徒を帝国劇場へ呼んだんです。それが授業だったの。

で、見たこともないね、絢爛たるその演劇っていうものをね、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』だからね、もう舞踊があり、オーケストラがありね、舞台装置も伊藤熹朔っていう当時のやっぱり築地からの名美術家が作ったり、穴沢三喜男って照明係がいたり、超一流の俳優もそうだしね、舞踊の日劇ダンシングチームもそうだしね、宝塚もそう、全部が出てね、オーケストラも本物、近衛秀麿っていう人が指揮とったりね、演出家、土方与志っていうもう生き残りのね、凄い演出家。そういう総合芸術をね、授業として呼ばれて観た。それで物凄い演劇ってこんな素晴らしい世界があるのかっていうんで、そういう感動があったわけ。で、嫌でも応でも僕もね、そっちへ(笑)やる気になっちゃってね、ますますその飛び込んでっちゃったわけ、演劇の世界へ。そういうことが、熱気があった。

今思えば、戦争という、長く抑圧されていた、子どもたちの性の解放みたいなあれでね、道徳を破ったとかそういう話なんだけど、それは関心があったよね。やっぱりそこら辺が新しいよね」

三枝博音先生が遺した「自分で判断する能力」

(加藤さん) 「役者として東宝と契約し、その道を進まれるわけですが、途中で悩まれた時、三枝先生の言葉がすごく加藤さんの中にあったそうですね」

(加藤さん) 「三枝先生の言ったことが身に染みてきたのは、もっと後なんです。東宝へ入ってから、東宝の専属生活が、今日からもうやめ、今年からやめっていう時に、僕は判断を三枝先生の言葉が出てきてね。役者をずっと続けなきゃいけない、みんなが他のボウリング場行っても、俺はどうしても自分の好きなことで、役者をなんとかして続けようっていう道へね、それは三枝先生の言葉がね、世の中を判断して、判断して生きていかなきゃいけないよっていう、物事自分で判断する能力を、いろんなことでも、もうつけてね、そういう生き方をしなきゃっていうのは身に染みてて。俺はおのれで持って、他のプロダクションでもいいからね、専属が終わったら、そっちの道へ行こうって、舞台でもテレビでも、CMでも何でもやって、生きていこうっていうね。そこは三枝先生の、物事を自分で判断していかなきゃいけないよっていう、そういうものが身に染みていた。判断が、20年後ですね、専属20年で終わってから、アカデミア卒業して役者やってて、大部屋俳優やってて、感じたことだったの。

やっぱりアカデミアで三枝さんの授業をね、色々出て聞いて、で、なんか困ったことがあったら、ね、先生に相談にして。それで、それだけは今度、もし先生がいなかったら友達同士にね、相談して、そういう人間の腰を据えていかなきゃいけないっていう、そういうのが身についていた。だから、アカデミアで以て三枝さんの授業を受けたのは、そういうものは、哲学の一つの、流れでやってくれたんだけどね。良かったなと思って。

生きる方法をね、哲学と論理学とそういうものに、他の授業よりもね、まずそこをね、どんな他の授業サボってもいいけど(笑)、その三枝さんだけはね、何とか出ようと思ってね。全部、哲学の初めから終わりまでね、1回も休まないでね、それ、そのために学校行ったんだ(笑)。

人間作りみたいなのを1人1人生徒にしみ込むようにね、それは教育だったんだよね。だから、建物が立派な大学のね、そういうコンクリートの大学じゃなくて、こんなお寺なんだけど、私の言うことをね、一言一言ね、やっぱり一緒に考えていこうよなって、そういう先生の教育方針もあったんだよね。だから他の先生もみんなそういう物事の解釈の仕方が、みんな大体、まとめると一致してんだよね。どの先生もね。なんか根本的にね、非常に人に頼まれてなんかやるんじゃなくて、自分なりにね、物事を解釈してね、やっていかなきゃいけないっていう、生き方みたいなのを、人生観みたいなのを、全部の先生がやって、教えてくれたよね。物事の、だから見方が、おのれで持ってすべてすべて考えてね、これが一番自分なりに、生きていく方法かっていうのは、そこで分かってきたんだけどね」

90代まで現役を続けた、元気の源

(中溪) 「最後に、加藤さんのそのお元気の秘訣、源って何ですか?」

(加藤さん) 「いや、これは大部屋俳優だからね(笑)。要するにね、こんなに仕事が忙しくなってもね、普通だったら東京へ下宿するとか、東京住まいにして、仕事場が東京だからね、すぐ行けるようなところに住まきゃ、それが当たり前なんですよ。だからそれをね、あえて鎌倉からね、毎日スカ線乗ってね、1番電車乗ってね、1番の、横須賀線の1番電車ですよ、4時半からの。それに間に合うに長谷からね、江ノ電がまだ無いから、歩いていくんです。毎日毎日、仕事があったからね、そのためにセリフがね、毎日違うわけですよ、作品が違うから。今日は時代劇でね(笑)、しゃべった言葉で、で、次の日は今度は現代劇でっていうね、そういうくらいに忙しかった。

で、それを全部鎌倉からね、1番電車乗るためにね、家をね、4時に起きてね、食事もしないでね、歩いて、鎌倉駅まで行くわけ。で、1番電車、で、そのために、そん時に、今日やるセリフを全部、繰り返し繰り返し、喋りながら、大きな声出しても平気だからね(笑)、朝早いから(笑)、誰もいないからね。冬でも夏でもね、真っ暗の時、時々江ノ電がまだ走ってないから、あの、線路のね、枕木をこう踏んでね(笑)、鎌倉駅まで、それをね、繰り返したわけですよ。何十年か。だから東宝の専属終わってから、だからね、大体90歳までだから、約ね、50年間くらい。それを繰り返した。年中歩いて歩いて、朝飯食べないで、行って、で、行って向こう行って近所でパンかなんか上げて、それが朝食で。そういうことを繰り返したわけですよ。だから、必ず歩いて電車に乗って、それをね、まぁ仕事場は自分の稽古場はその朝ね、4時に起きてね、鎌倉駅まで怒鳴って歩く(笑)。セリフを言いながらね。そう、それ僕の、1つのね、役者生命の(笑)」

学びの神髄と、今に繋がるパッション

加藤さんのお話から、漁師と役者という二足の草鞋を履き、人生を全うされたその背景には、鎌倉アカデミアでの学びや、師、仲間との確固たる絆があったことが伝わってきます。

学校で学んだことが単なる知識にとどまらず、生きていくための「知恵」として、血となり肉となっている。加藤さんが生涯大切にされた「物事を自分自身で解釈し、判断して生きていく力」こそが、鎌倉アカデミアにおける「学びの本質」であり、混沌とした戦後を生き抜くための灯火だったのではないでしょうか。

さて、この80周年のアニバーサリーイヤーである2026年、この学びやの足跡と、今の時代にも響き続けるパッションに触れる機会があります。

2026年6月13日(土)に、まさにあの仮校舎であった光明寺にて、「鎌倉アカデミア創立80周年記念イベント」が開催されます。熱い思いを持った方々が、時空を超えてこの地に集い、美しい循環がまたここから生まれることと思います。

鎌倉アカデミアが遺した、自由で革新的な学びのあり方。それは今もこの鎌倉の地に、そしてここで活動する人々のDNAの中に、確かに息づいています。

エンディング:Share the Music

今月はいつもと趣向を変えてお届けした「みんなのアカデミア」、いかがでしたでしょうか。

このまま番組のエンディングとして、「Share the Music」のコーナーに移りましょう。5月の母の日にちなんで、『Mother』というタイトルの1曲を一緒に聴きながらのクロージングとしたいと思います。

今週もお聞きくださり、ありがとうございました。 みんなのアカデミア、ご案内役の中溪でした。 来週もこの時間に、Tune in, please join us and share your story.

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この記事を書いた人

こんにちは、上岡洋一郎です。
鎌倉生まれ育ちの36歳、ハウスメーカー営業、不動産投資会社を経て、不動産屋さんをやっています。不動産を通してこの地域がもっとワクワクできないか、いつも模索しています。

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