風かおる5月の週末、皆様いかがお過ごしでしょうか。
「みんなのアカデミア」ご案内役の中溪です。
この番組では、ローカルコミュニティ、学び、未来をキーワードにゲストの方にお話を伺っていますが、5月はいつもと趣向を変えてお届けします。
今から80年前の1946年5月。鎌倉・材木座の光明寺を仮校舎に、「鎌倉アカデミア」が開校しました。
校長の三枝博音をはじめ、林達夫、服部之総、吉野秀雄、高見順といった数多くの著名な学者や文化人が教鞭を執り、多彩な人材が育った学び舎です。しかし、激動する時代の波にほんろうされ、わずか4年半でその歴史に幕を下ろしました。
幻の大学として語り継がれる鎌倉アカデミアの「80周年」という節目に、今もなお色あせることのない学びへの情熱と、その息づかいをお伝えできたらと思います。
新聞記事が映し出す「永遠なる学び舎」
ここでまず、鎌倉アカデミアに関する新聞記事をご紹介します。2017年6月20日付の日本経済新聞(夕刊・文化欄)に掲載された、『永遠なれ 鎌倉アカデミア』という記事です。
筆者は、鎌倉アカデミア演劇科の第1期生であり、当時現役の俳優、世界を舞台にした映画『浜の記憶』に93歳で初主演された加藤茂雄さん。記事の出だしを抜粋してご紹介します。
終戦直後の鎌倉。学びへの飢えていた若ものに、国家によって抑圧されてきた知識人が思想や知識をぶつける熱い学校があった。1946年5月開校の鎌倉アカデミアだ。
著名な講師陣を擁し、作曲家の泉沢九や、作家の山口瞳ら多くの文化人を輩出した。俳優となった私(加藤さん)もその一人だ。
戦前の私は、例に漏れず軍国青年だった。二一の夏に陸軍に召集され、立派に戦死することしか考えていなかったが、わずか15日後に終戦を迎えた。鎌倉に戻ったのは11月のこと。食べていくために漁師として、来る日も来る日も海に出た。
そんなある日、近所に住んでいた写真家が小高らかに言う。「地元にすごい学校ができるんだ。先生の顔ぶれが素晴らしい、絶対に行くべし」と。
加藤茂雄さんインタビュー:軍国少年が「自由の熱気」に飛び込むまで
ここからは、加藤茂雄さんがお亡くなりになる約半年前、2019年12月に鎌倉FMのスタジオでお話を伺った貴重なインタビューをお届けします。音声データ「鎌倉アカデミア80周年Anniversary Special.mp3」に残された、加藤さんの人生を大きく変えた戦争の記憶、そして鎌倉アカデミアとの出会いとは――。
15歳で感じた「草色の服」への違和感
(加藤さん)
「僕が15歳で小学校を卒業した頃は、もう戦争にそろそろ入っていった頃でね。16歳になったら大東亜戦争が始まったわけ。だから15歳で、大きな飛行機を作る会社に入ったんですけど、そこで自分なりに15歳ながら、『差』を感じたわけ。
洋服だとか、作業着だとかが全部『草色』の服を着せられてね。片っぽは中学を出てると黄色の服を着てね。従業員の差別みたいなのが、すぐ感じて15歳でね。これはうちに手紙書いて、弟たちに『俺と同じ目に合わせないように、中学校へは絶対に上げなきゃいけない』って、そういう手紙を送ったことがあるんだけどね。
そういう世の中へ出て初めて、日本が軍国化になっていくその狭間の中へ入っていったら、まずそれは感じたわけ。一生、草色の洋服でね、工員で以ていかなきゃいけない、片っぽは黄色の服着てね、技師の候補になってね、技師でいくっていう、人生の分かれ目みたいなのを子供の時に、15歳で、初めて横浜の工場へ行った時に感じたうんですよ」
180度変わった世界、そして「駆け込み寺」への導き
(中溪)
「そんな中、終戦を迎えられて。その後、写真家の山村さんとの出会いから鎌倉アカデミアに繋がっていくんですよね」
(加藤さん)
「戦争っていうね、大きな戦争が敗戦になって、国がね、二つに、もう今までの形態がパッと変わったわけ。180度変わったわけだよね。だから、そのために前のその自分でも草色の洋服でずっと一生いくんだなっていうのが、そこで途切れたわけですよ。戦争が負けたっていうことでね。
そこで初めて鎌倉へ帰ってきて、食べ物が非常に、なんていうの、欠乏した時代でね、じゃあ漁師でもやらなきゃって、漁師やったり。それから山村一平さんっていうね、近所に住んでいた、元『改造』っていう雑誌のグラビアを鎌倉の作家たちを全部追いかけて、文章にして写真撮ってグラビアに載せてた、そういう人がうちのそばにいたんで、その人が写真屋さんを始めたんでね、それのお手伝いをね、漁師のない時は手伝った。
そしたらその山村さんが、鎌倉アカデミア(その頃は鎌倉大学の予定だったそうですが)、鎌倉に初めてそういうね、凄い先生たちが、二度と日本中の学校が集められないような先生が来て、この人たちは戦争反対をした人たちが主な人たち。ものの数え方がね、今まで神がかっていた、神風が吹くだとかね、なんとかっていうことは全然違う人で、ちゃんと物などをね、解釈してね、こんなことしちゃ駄目だっていう、そういう、そういう人たちが全部集まって先生になってきてるから、もう絶対にこういう人たちにね、教わるべきだと。『鎌倉にこんな近いところにね、大学ができたんでね、私が若かったら飛んでいくよ』って言われてね。
で、そうかなと思って。戦争に反対した人は、俺があんなに一所謙命ね、この戦争を勝つと思ってやってた人がね、我々がね、こういう人にどうしてね、あの戦争に反対したのか、それを聞いたいと思ってね。それで、闇雲に光明寺の屋根がね、あそこへ飛び込んでったんです」
後編へつづく:マグマのように噴き出すエネルギー
軍国青年として「戦死すること」を覚悟していた加藤さん。しかし終戦によって世界は180度反転し、かつて戦争に反対した知識人たちの思想に触れるため、材木座の光明寺へと飛び込みます。
そこには、加藤さんと同じように「何か」を渇望し、全国から集まってきた強烈なバックグラウンドを持つ若者たちが待ていました。
次回の後編では、当時の光明寺の驚くべき授業風景や、加藤さんが役者への道を歩むことになった決定的な瞬間、そして鎌倉アカデミアの精神がいかに現代へ受け継がれているか、さらに深く迫ります。どうぞお楽しみに。




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