【第32回】しょーちゃんコラム 大船の「木曽塚」へ行きました

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私は、5歳の頃から歴史が好きです。

言うまでもなく、今、鎌倉に住んでいることには、物凄い喜びを感じながら暮らしています。

例えば、今の私の住まいのすぐ近くにある常楽寺

歴史に興味のない人からしたら、「バス停の名前」にしか感じられないことも多いらしいですが、「常楽寺」は、1221年の「承久の乱」で朝廷の大軍を総大将として破り、その後650年に及ぶ「武士が頂点に君臨する日本」を決定的にした鎌倉幕府3代執権・北条泰時公が建立した寺院だと知った時は、そこのすぐ近所に住んでいる自分に物凄く感動しました。

しかし、「常楽寺」の中には、もう1つ大きな意義のある史跡があることに、最近気づきました。

それが「木曽塚」です。

木曽、というと少し歴史に詳しい方は、源頼朝・義経(範頼も)兄弟の従兄弟にあたる、源平合戦の歴史を語る際には外せない武将・木曽義仲を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

結論から言えば、木曽塚は、木曽義仲の長男・吉高の墓です。

鎌倉で活躍したわけではない、鎌倉幕府成立以前(※鎌倉幕府成立時期に関しては諸説あります)に戦死した木曽義仲の息子の墓が、なぜ鎌倉に?と思われるかもしれません。

これには、深い悲しみの歴史があるのです。

それが吉高と頼朝の娘、大姫(おおひめ)の物語です。

まず、事の顛末を解説した記事のURLを紹介します。

(東洋経済オンライン 木曽吉高 大姫)
20歳の若さで死亡「源頼朝の娘」生涯が悲運すぎる 婚約者の木曽義仲の嫡男を頼朝に殺されて病に | 歴史 | 東洋経済オンライン

20歳の若さで死亡「源頼朝の娘」生涯が悲運すぎる大姫は源頼朝の長女で、治承2(1178)年、妻・北条政子との間に生まれた最初の子です(大姫の誕生は1176年、1179年とtoyokeizai.net

鎌倉を中心に武家の棟梁としての地位を確立しつつあった大姫の父・源頼朝と、従兄弟で、1183年の「倶利伽羅峠の戦い」(※倶利伽羅峠は現在の富山県と石川県の県境にあります。この戦いで、木曽義仲の軍が大量の牛の角に松明をつけ、平家の軍に夜襲をかけて壊滅的なダメージを与えた、という伝説はかなり有名なので、知っている方も多いかもしれませんね※)などで平家を敗走させ、自ら「旭将軍」と名乗るほど勢いに乗っていた吉高の父・木曽義仲(源義仲)は対立関係にありました。

やがて両者は和睦しますが、その時、当時10歳だった(※これも異説があります)義仲の長男、吉高が人質として鎌倉に送られます。そして、頼朝の娘、大姫と婚約させました。(現代の感覚で言えば、従兄弟との仲直りに子どもを人質に出し、将来の結婚相手も決めてしまうという、かなり怖い展開だったわけですね・・)。

しかし、木曽義仲はその後、時の朝廷の最高権力者、後白河法皇とうまくいかなくなり、なんと法皇を幽閉するなどのありえない行動に出たため、再び頼朝らに攻め込まれます。そして、遂に戦死しました。

(URL・源義仲wikipedia)
源義仲 – Wikipedia

源義仲 – Wikipediaja.wikipedia.org

当然、吉高の立場は最悪なものとなり、遂に頼朝によって「将来の禍根を残さないために」と、吉高の殺害が決断されました。

吉高は従者の手伝いもあって鎌倉からの脱走に成功しますが、今の埼玉県まで落ちのびたところを捕らえられ、打ち取られてしまいます。

このことはほどなく大姫の知ることとなりました。

吉高を慕っていた大姫は嘆き悲しみ、病んでしまいました。そして、20歳の若さでこの世を去りました。このことで、頼朝の妻であり、鎌倉で絶大な影響力を持っていた政子も大激怒したと伝わっています。

私自身、子どもの頃は、源平合戦の裏にこのような悲しい物語があったことなど知りませんでしたが、数年前の大河ドラマや、「鎌倉市民としての日常の中で」知るようになり、やがて、今の住まいのすぐ近くに木曽吉高の墓があるらしい・・と分かってきたので、12月初頭の休日に散歩がてら行って来ました。

本当に、今の住まいから徒歩10分圏内でした。

(写真・木曽塚 2枚)

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静かな佇まい
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閑静な住宅街の、小さな公園の奥と言うロケーションで、グーグルマップがないと少し分かりづらい場所かもしれないな、と思いました。

「木曽塚」も小さな墓でしたが、賽銭も集まっており、悲劇の最期を遂げ840年前のプリンスを今も思う地元の人(観光客もいると思いますが)の熱い思いが伝わってきました。

私も少し賽銭をおいて、手を合わせました。

木曽塚には石碑もありました。

(写真・石碑)

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本当に静かなロケーションで、時がゆっくりと流れていました。

悲劇のプリンス・木曽吉高は、現代の日本を、どう見ているのかと思いました。

「次々争いや憎しみが続くのは、あの頃と同じだな」と思っているかもしれません。

争いが収まる日本に、世界になるといいですね。

そして木曽塚の裏から常楽寺の境内まで階段で通り抜けが出来ました。

常楽寺の庭園はこの時まだ色づいていました。

(写真・常楽寺の庭園)

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いつ来ても美しい庭園です

この日は、今まで不覚にも気づかなかった近所の新たな顔を知った気分でした。

歴史の息吹が根付く街にいられることに感謝して、日々暮らしたいです。

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この記事を書いた人

数年前に東北地方から移住してきました。様々な人の支えでこの街でくらしています。私は歴史好きであり、さらには地域のパワーが凄いこの街が今は大好きです。外部から来た者ならではの視点で、この街の魅力を発信していきたいです

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